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好きなことをしてるだけなのに、なぜ怒られる?

こんにちは、のばすけです。

うちには大学生の長男と中学生の次男がいます。
このふたり、どちらも「好きなこと」をして過ごすのが大好き。
けれど、まわりの目や自分の感じ方にはちょっとした違いがあることに気づきました。


長男は「勉強好き」

長男は大学生。勉強が好きで、授業が終わったあとも図書館に行って自分の興味のある分野を調べているほどです。
宿題や試験勉強というよりも、完全に自主的に、自分の将来のためになることを探究している様子。

親としても、「すごいなぁ」「偉いなぁ」と思うし、止める理由もない。
むしろ応援したくなるような行動です。


次男は「ゲーム好き」

一方、次男は中学生で、ゲームが大好き。
ほうっておいたら何時間でもやっていそうなので、今は「1日1時間まで」とルールを決めています。

やりすぎると「もうやめなさい!」とつい言ってしまう。
…でも、ふと思ったのです。


どちらも「好きなこと」をしているだけ

勉強してる長男は止めないのに、ゲームしてる次男には「もうやめなさい」と言う。
これって、どちらも「好きなことをしている」だけなのに、なぜこうも扱いが違うんだろう?

違和感を覚えて、それぞれに話を聞いてみました。


話を聞いて見えてきた違い

長男の話:
「今やってるのは、授業の復習じゃなくて、自分の興味あることを調べてる。将来の仕事につながるかもって思ってる。」
→ どうやら、かなり自主的に考えて行動しているようです。

次男の話:
「このゲーム、クリアするのに工夫がいるんだよ!」
→ とはいえ、ゲームの中で用意された範囲内での楽しみ方。ルールも目的も、すべてゲームの中にある。


自分で考えてる? それとも与えられてる?

ここでひとつの視点に気づきました。

長男の勉強: 自分で考えて、自分の目的に向かって行動している「主体的な行動」
次男のゲーム: 誰かが作った世界で、用意されたものを楽しんでいる「受動的な行動」

好きなことをしているだけなのに、評価が変わるのは
**「自分で考えて動いているかどうか」**が大きいんだと思います。


例えば、こんな場合だったら?

仮に、次男がマインクラフトで自分で設計して、何日もかけて巨大建築をつくっていたとしたら…
たぶん、私は時間をオーバーしていても「すごいじゃん!」と褒めている気がします。

仮に、長男が「テストで点数をとること」だけを目的に勉強していたとしたら、
私は「それよりも青春時代をもっと楽しめるような時間の使い方もあるんじゃない?」と伝えるかもしれません。

つまり、「ただやらされているか、自分でやっているか」
ここが私にとっての評価ポイントなのだと思いました。


最後に

好きなことでも、「主体的に取り組むこと」には価値を感じる。
逆に、「受け身でただ流されていること」には不安を感じる。

親として、子どもの時間の使い方を見ていると、つい「主体性」を求めてしまうもの。
でも、本人にとっての「楽しさ」や「没頭する気持ち」も、ちゃんと尊重していきたいなと、改めて思いました。

補足として

今回は、長男と次男を比較する意図はなく、あくまで「好きなこと」が「勉強」と「ゲーム」だった場合について考えてみました。
実際、長男は勉強が好きだけれど抜けているところもあり、次男はよく気がついて、自然に優しい言葉をかけてくれるような面もあります。
それぞれに素敵なところがたくさんあって、どちらが優れているという話ではないということを、最後にお伝えしておきます。

では!

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この記事を書いた人

1973年生まれ。15歳から働き始め、「家族みんなで毎日食事ができるような普通の家庭を築く」ことを夢見て生きてきた、どこにでもいるただのおじさんです。
ありがたいことにその夢は叶い、今は15歳から働いてきた人生経験を“健康寿命を伸ばす”ことに活かしながら、「残りの人生を思いきり楽しむ!」を新たな目標に、日々模索しながらチャレンジ中です。
このブログでは、日々の小さな幸せを見つけながら、ゆるく気負わず人生を楽しむヒントを、読んでくださる皆さんと一緒に見つけていけたらと思っています。

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